散歩が好き。特に、夜の散歩は格別だ。履き慣れたスニーカーに足をつっこんでお外へ出かける。手ぶらが理想かな。財布とスマホをジーンズのポケットに入れ、右手も左手も自由なほうがいい。カバンの類いはじゃまなので持ち歩くのはショルダーバッグぐらいだ。いや、そもそも、バッグは肩から掛ける系しか持ってないや。
夜のお散歩に音楽は不要だ。部屋のなかでは常にSportfyから音楽を垂れ流している。だが、散歩中には何も音楽を聴かない。近くを走る電車の音や幹線道路のクルマ、空気に漂うさまざまな音たち。そんな街の音がBGMになってくれる。散歩と街の音は相性がいい。完全完璧にこのふたつはセットだ。そんな夜の音を聴きながら、ふだんよりはゆっくりめに道を歩く。
夜のお散歩に目的地はない。ただただ、足を前に運んでいく。身バレになるので詳しくは書かないが、住んでいるところの近くに有名なお寺があって、その周辺をぐるぐると回ったりする。お寺に入れたら最高なんだけど、夕方には すべての門が閉められてしまってお寺の敷地には入れない。背の高い木造の塔が見えて、ときどき、そちらを見ながら、夜空を見上げたりしながら、足下の小石などを気にしつつぼんやりと歩く。
京都市内には路地が多い。世界共通の認識として、素敵な路地がある街はおもしろい。これは絶対の法則だ。東南アジアの都市部にありそうなカオス丸出しの路地に漂ってる危なげな匂いも嫌いじゃないし、モロッコのマラケシュみたいなひっそりとした路地も独特の趣がある。路地は整理整頓されていないほうが楽しみが落ちている気がするし、なによりもその街の魅力を五感で味わえる。
散歩が好きかも、と自覚したのは20歳前後くらいのときだった。どういうわけか、1冊のマンガと散歩好きかもって思いが記憶のなかで結びついている。そのマンガとは、つげ義春の「ねじ式」だ。
「ねじ式」について、ここに多くを語るつもりはない。内容は昨日見た夢みたいにシュールで、読む人が自由に受け止めていい作品だと思う。さまざまな人が「ねじ式」を考察していて、さまざまな解説本が出版されている。そんな情報はあくまでもおまけ程度でじゅうぶんだ。あえて、加えるべきことがあるとすれば、「ねじ式」が書かれた1968年の日本がどんな雰囲気だったのかを頭の片隅に置いておく。それぐらいでちょうどいい。
マンガに限らず、小説や映画には物語を内包している。物語には速度があって、時間軸を横軸ににして、受け手の頭のなかにその物語が流れていく。テンポと言ってもいい。小気味よいスピード感のある作品は万人に受け入れやすいし、だいたいの人気作は現実ではありえないようなテンポで物語が進んでいく。
つげ義春の作品に流れる物語が散歩とよく似ている。そう、20歳ぐらいのときに感じた。深い理由などはない。きっかけも覚えていない。ただ、なんとなく、そう思った。ただ、それだけだ。理路整然とした理屈もないし、かなり皮膚感覚としての結びつきだった。
「ねじ式」を始めとする、つげ義春の作品には他の作品に見られるようなスピードやテンポといったものが皆無だ。かといって、まったくの停止状態にあるわけではなく、ゆらりゆらりとその場所で足踏みしている。リズムが他のマンガ家さんとかなり異なっている。読み手を不可思議な場所へと連れていく。言葉ではうまく説明できないとても不思議な作品郡だ。
散歩の醍醐味は曲がり角だ。あの先の曲がり角を左に曲がろうか、それとも右に曲がろうか、もしかしたら、ここからは見えない曲がり角の向こう側には自分が知らない世界が広がっているかもしれない、そんな期待感、ワクワクとまで大きくなくてもソワソワとしたちっぽけな冒険心が散歩にはある。
京都市内にはお散歩におすすめな道が数多くある。例えば、先斗町の路地、銀閣寺側から南へ下っていく哲学の道、北白川の疎水沿いの道、などなど。できれば、平日がいい。できれば、春のサクラや秋の紅葉のシーズンは避けたほうがいい。人が少なすぎるのは寂しいが、人が多すぎるところでの散歩は純粋な散歩ではないような気がする。
寄り道、最高だし、まわり道なんて散歩では当たり前の日常だ。つげ義春の作品も寄り道とまわり道している半生と反省の日々を綴ったマンガだし、そういったところに魅力というか、親近感を覚えてしまうのかなと思ったりする。それ以外の理由に思い当たりはない。
思い返せば、自分だって、毎日が夏休みで、今の今もずっとお散歩している気がしないわけでもない。20代の前半、いや、10代の後半からそんな生活を続けてきた。まあ、お散歩は気持ちいいよ。散歩みたいな人生でもいいじゃない。寄り道やまわり道がその人の生業というか、顔のしわに隠された魅力になる。そんな言い訳を自分に言い聞かせたほうが気楽でいい。
そう、単純に思っちゃう。