寒くなると寒い国の音楽が聴きたくなる。暑くなると暑い国の音楽が聴きたくなる。これ、同意する人、多いんじゃないかな? どうなんだろ?
身体の奥に潜んでるDNAがいたずらに騒いでいるというか、内側からこちょこちょとくすぐっているみたいだ。寒い国には寒くなるような音楽がつくられる素養があって、暑い国には暑苦しくなるような音楽が生み出される。人間が、とか、そんな意味合い抜きにして、ごく自然にビートやメロディが手足や口から生み出されているような気がしてならない。
例えば、こんな音楽。
Mum
Sigur ros
Stina Nordenstam
どのアーティストも春夏秋冬、1年中聴いているけど、冬がいちばん身体に染みる。手の先から頭のてっぺんまで染み渡っていく。
京都の夏は暑い。
とんでもない暑さらしい。京都以外の土地に住んだことがないので自らの体感として、この暑さという曖昧な表現を使っていいものかは悩むところだ。単純に比較対象するものがないので難しい。でも、観光にやってきた人や、他の地域からお引っ越ししてきた人は口々にそう言う。
京都の夏は暑い、と。
京都市内は山々に囲まれた盆地だ。たっぷりの熱、そして、じれったいぐらいの水蒸気が市内の底に沈んでいる。真夏の京都は軽く35度を越えてくるし、それが通常だし、ちょっと外出するだけで汗が吹き出てくるからショルダーバッグの中にフェイスタオルは必需品と言っていい。
まあ、とにかく、京都の夏は暑い。
京都の夏と言えば、祇園祭と五山の送り火だ。特に、祇園祭は「夏だな」と感じる。正確には市内のあちらこちらから祇園囃子の音楽が流れてくると、夏が近づいていると耳で感じる。
以前からずっと思っていることなんだけど、祇園囃子の特に金属音がバリ島のガムランに似ているような気がしてならない。実際、バリ島でケチャやガムランを生で聴いたときにもそう思った。祇園囃子、ガムラン、このどちらも西洋音階からすると不安定な音程が妙に心地いい。
似たような、似ていると感じられるような音楽がバリ島と京都という遠く離れた地域で現代まで受け継がれている事実はとても興味深い。使い古された表現だけど、歴史のロマンだよね。同時発生的にふたつの音楽がつくられていたとしたら……そんな想像すると細胞の振動がゆらゆらと揺れてくる。
最後に。
ただ、YouTubeを貼り付けてみたかっただけの文章なんだけど、祇園囃子で検索していたら、こんなものを見つけてしまった。public domain channelってアカウントだ。1953年、溝口健二監督の映画『祇園囃子』が全編公開されている。
『祇園囃子』(1953)
これ以外にも数多くの日本映画がアップされているようだ。頻繁に更新されているみたいなので思わずチャンネル登録してしまったよ。
過去の文化がこうやって次の世代へ、次の時代へバトンを渡していく。
祇園囃子もガムランも映画も。
だね。